GROUP DISCUSSION2024.4.10

四国は、人間回復できる場所。ー石丸製麺(株)・石丸芳樹氏、田中悠氏ー

GROUP DISCUSSION2024.4.10

四国は、人間回復できる場所。ー石丸製麺(株)・石丸芳樹氏、田中悠氏ー

国産小麦という原料にこだわり、また手打ちの良さを活かした「手打ち式製法」を確立させるなど、おいしいうどんづくりを追求する石丸製麺(株)。同社の事業推進の根幹には「人との出会い」があります。全国の農産物生産者と「融業」はその象徴的な事例で、うどんの高付加価値化とともに食品ロス削減・農業の6次産業化への貢献にもつながっているのです。今回は、同社代表取締役・石丸芳樹氏と、同社へUターン転職した田中悠氏にご登場頂き、「四国ならではの働く価値」についてお聞きしました。

県外に出て、うどんがソウルフードであることを実感


田中さんのプロフィールを教えて下さい。
田中
18歳まで香川で暮らしていましたが、進学を機に県外へ。大学院まで6年を県外で過ごしました。せっかく院まで進んだのだから、研究分野を活かせる、やりがいの大きな仕事をしたいと考え、東京本社の大手食品メーカーに就職。京都工場に配属となり、生産技術として働きました。
就活で地元に戻ろうという気持ちはなかったのですか。
田中
関東や関西の会社でないと、大きな仕事はできないだろうと考えていたものですから。今振り返れば、視野が狭かったと感じます。
前職ではどのような働きぶりだったのでしょう。
田中
当時は、1日30品目のパンを2回転で製造していました。延べ60品目、製造数は何万個の単位です。それらを11個単位で計算して出荷するため、ラインがちょっとでも止まると一大事です。「この時間までに◯万個必達!」という目標を掲げ、ラインを止めないよう、必死でやっていました。目標をこなすのに精一杯で、なぜその作業をやるのか、どういった意味があるか…なんて考える余裕はありませんでした。


Uターン転職の気持ちが芽生えたのは、いつ頃からですか?
田中
就職して3年経った頃、地元香川県はいいな、と思い始めたのです。学生の頃は帰ろうと思えばいつでも帰れたのに、就職して忙しい日々が続き、なかなか帰省できません。それで、時々うどんが食べたくなって。関西にも讃岐うどんのお店があったので、よく食べていました。でも、うどんに好きなトッピングを選んで、食べたいだけ食べると、結構な金額になるんです。香川では500円くらいあれば、お腹いっぱいになったのに。
加地
うどんがきっかけになっているのですね。
田中
社会人になって「香川出身です」と自己紹介すると、周囲の同僚から最初に口をついて出るのが「うどんだよね」という言葉ですよね。そこから「自分も香川にうどんを食べに行ったことがある」と話が広がったりしました。香川県人にとって、うどんは大切な存在なのだと、県外に出て気がつきました。
仕事については、自分なりにやりがいを感じていたんです。ただ夜勤もあったし、忙しいな…という思いは常にありました。
そんな矢先、実家の環境変化もあったため、先々を考え、本格的にUターン転職に踏み切ることにしました。
具体的にどう活動されたのですか?
田中
香川県主催のUターン就職説明会が大阪で行われたので、出席しました。そこでリージェントさんを紹介され、転職コンサルタントの方とやりとりを始めたのです。
食品業界の生産技術職、という経験を活かせる仕事があるだろうか、と相談したところ、数社の紹介をいただきました。その中で経験に最もマッチしていそうなのが石丸製麺でした。
加地
うどんをきっかけに「地元香川県もいいな」という感情が生まれ、Uターン転職した先がうどんメーカーだった、というわけですね。
石丸
香川県人にとっては、ソウルフードなのでしょう。全国展開の讃岐うどんチェーンも誕生し、認知度も広がりました。どこに行っても讃岐うどんが食べられるようになったし、食べると地元を思い出す。こういう食べ物は、他にはないのではないでしょうか。
加地
愛媛県と言えばみかんとか、岡山と言えば桃とか、特産品はどの地域にもありますが、うどんほど日常に根付いた存在というのは、あまり聞かないように思います。


田中
県外に出ると、香川県人のようにうどんに愛着を持つ人々というのは、珍しいみたいです。地元とのつながりを感じられる食があるというのは、ありがたいことですね。地元に帰ってきて、今は存分にうどんを味わっています。自社製の麺も食べますが、店舗で食べることもしょっちゅう。どこに行ってもおいしいうどんが安く食べられるので、香川はいいですね。

コミュニケーションを大事にする社風で、やりがいがある


石丸製麺での仕事はどんな感じですか?
田中
前職では、規模が大きかったこともあってか、工場長と話す機会などほとんどありませんでした。しかしここでは、工場長とのコミュニケーションも頻繁にとっています。もちろん、生産部各部署の管理者の方々とも、いつも話をします。「こうしたらどうか」と思うことがあるとすぐに提案できますし、それで行こうとなったら、関係者の動きも早い。とてもやりやすいですね。

メーカーにおいて品質管理は、板挟みになりやすい仕事です。現場に対しては、こういうふうにやっていきましょう、設備をこう活用しましょうと提案をしなければなりません。一方で、設備改善などコストが発生する場合は、経営側の了承を得なければなりません。経営と現場の双方から文句を言われる、損な役回りと言う声も聞きます。
しかし石丸製麺では、そのような状況はありません。現場は私たちの提案に耳を傾けてくれます。また社長に直接意見を言える機会もよくあるのですが、社長はしっかり理解してくれます。
加地
石丸社長はよく「人との出会いを大切に」という話をされます。その姿勢が、社内に根付いているのでしょう。
田中
立場上、事務職の人から製造職の人まで、雑談も含めていろんな話をしますが、みんなコミュニケーションをとても大事にしているな、と感じます。話すごとに顔見知りが増え、人間関係が構築される度にどんどん仕事がやりやすくなっています。
加地
品質管理のセクションができたのは最近ですよね?
田中
私が入社する直前の2019年に組織ができた、と聞いています。石丸製麺は手打ち式製法という画期的なやり方でおいしい麺を作ってきたのですが、製造ノウハウは経験や勘に頼っていた部分もありました。しかし品質管理のセクションができたことで、先輩方の積み重ねてきた技術が、数値として残せるようになってきた、と思います。もちろん、それまでの積み重ねがあったからこそですが、より良いものづくりのお手伝いができていることに、品質管理として嬉しく感じます。
私たちのイメージする品質管理より、業務の領域が広いですね。


田中
品質管理というポジションの枠にとらわれず、いろんなことにチャレンジさせてくれるが、この会社の特徴です。だから営業の抱える案件に対し、商品企画チームと協働で課題をクリアしながら、生産に落とし込んでいく、といった活動にも首を突っ込んでいます。
石丸
それは、田中さんのポテンシャルが切り開いたものです。製造部門とも営業部門とも積極的に話をして、「こうしたらどうか」と提案できている。彼の主体的な言葉が、みんなを動かすのでしょう。田中さんの行動が、当社の品質管理をどんどん進化させているわけです。彼の積極性は、他のメンバーにとってもすごく刺激的だと思います。田中さんのような、工場長であろうと経営陣であろうとどんどん提言する人材が、会社を変える存在になるのです。

石丸製麺は創業の頃から、品質の向上には注力してきました。良い原料がなければおいしいうどんはできない、と小麦にもこだわってきましたし、手打ち式製法を確立できたのも、おいしいうどんを人々に届けようという思いがあったからです。そして、大前提として、当社から生み出される食は絶対的に安全でなければなりません。昨今ではこれらに加え、食品ロスの削減、環境負荷低減といった課題にも真摯に向き合うことが大事になってきています。さらに、うどんを海外で販売しようとなった時。徹底したマニュアルやレギュレーションの整備による品質の管理が不可欠となっています。これらの様々な壁を乗り越えるため、品質管理の果たす役割は、いっそう重要性を増しています。

田中さんが品質管理のセクションにやってきたことで、当社の品質管理のレベルが一段上がりました。彼が品質管理として様々な創意工夫を行うことで、品質へのこだわりという当社のコアが、より強固になった、と感じます。
今後、石丸製麺でどうキャリアを築いていきたい、と考えていますか?
田中
生産と営業・事務、あるいは工場と経営の間に立つ品質管理という仕事に、やりがいを感じています。間にいるからこそ、全体を俯瞰できるんです。営業はどういう物を作りたいと考えているのか、工場は何を重視しているのか。今後を考えると、グローバルな視点から見た食品安全のルールづくりも不可欠です。品質管理という立場で各所とコミュニケーションを取りながら、これらの課題を克服していきたい、と思います。

四国には、生きている実感・安心感がある


香川に帰ってきて、働き心地、暮らし心地という点では、どう変わったと感じられますか。
田中
京都にいた頃は車もなく、社員寮と工場を往復するような生活でした。しかし香川に戻って車通勤ができるようになり、地元の友人とも気軽に会えるようになりました。ホッとするし、自分らしい日常を取り戻したな、という気がします。
石丸
私も石丸製麺に入社するまでは、東京で暮らしていました。結婚して、子をもうけて。一度香川に戻ったけど、また東京に行って。地元に腰を落ち着けるようになったのは、40歳くらいからです。
地元に帰った時に感じたのは、私という人間が回復したなあ、ということです。大都市の喧騒の中にいると、本来の自分の姿を忘れがちになるんですよ。目先のことにとらわれて、自分がどんどん世知辛くなってくる、というか。地元に戻ると、時間の流れ方が違いますから。幼少の頃から過ごした仲間もいるし、家族もいる。だから思考がゆったりする。本来自分がいるべき場所に戻ってきた安心感、とでも言えばいいのか。私はその方が、仕事にも身が入るように思います。


加地
確かに地元というのは、人間回復してくれる場所なのかもしれません。
石丸
都会でこそ生きがいを感じられる人もいるでしょう。しかし、そういう人ばかりではありません。仕事が終わって終電に乗り、もみくちゃにされながらようやく家まで帰る。それが嫌で、私は青山から目黒まで、自転車通勤していました。疲れたけど、満員電車でくたくたになるよりマシだ、と。
どこに価値を置くか、は人それぞれだけど、私はやはり生きている実感・安心感とか、健康的な生活を重視したい。そういうことを大切に思う人は、地方にUIターンという選択肢もありではないでしょうか。
田中
私は帰ってきて、心の余裕を持てるようになりました。仕事に忙殺されていると、明日のことを考えるのもしんどくなってきます。しかし香川に戻ってからは、5年先、10年先の未来を見据えることも増えました。石丸製麺を発展させるには、自分が人間的に成長しないといけないなと思うし。明日のために、今から勉強しておこう、と前向きにもなりました。
石丸
空気がいい、暮らしやすい、街がコンパクトにまとまってどこに行くにも便利、食べ物がうまいし安い。香川の環境はつくづく恵まれている、と感じます。この安定感は、お金に変えられません。大手企業に勤めていて、異動で香川の支社や支店にやってきた人々が、そのまま居着いてしまう、というケースもよく聞きます。
こういった環境こそ、四国ならではの価値ではないでしょうか。生活の安心に加え、仕事の充実もある。当社で言えば、誰にも負けないうどんを作っている、という誇りがある。環境の良さと仕事のやりがいを両立させたいという人には、お勧めしたい環境ですね。
加地
四国は人間回復の場所。私も東京から四国にUターンした人間なので、わかる気がします。そういった魅力があることを、私たちも多くの人に広めていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

石丸 芳樹

石丸製麺(株) 代表取締役社長

香川県高松市出身。一橋大学卒。伊藤忠商事株式会社を経て、石丸製麺株式会社に入社。製造・営業現場を幅広く経験し、2002年に常務取締役、そして2004年に代表取締役社長に就任。同社4代目の社長として、創業以来のモノづくりの姿勢を引き継ぎつつ、「さぬきの夢」「年明けうどん」「茶うどん」「全粒粉うどん」等々、新たな「讃岐うどん」文化の創出に向けて積極的に取り組んでいる。

田中 悠

石丸製麺(株) 品質管理室 副主任

1991年生まれ。香川県高松市出身。鳥取大学大学院農学研究科修了。東京本社の大手食品メーカーに就職し、京都工場に配属。食品製造および生産技術を担当する。3年勤務の後、2019年に石丸製麺へUターン転職。1年間製造現場で経験を積んだ後、現在は品質管理室の副主任として活躍している。

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